学び方を教える

植松氏の投稿に納得しましたのでシェアしました。

皆さんはどう思われますか・・・・

 

「なぜ?」を「調べる」練習

以下参照記事です。 

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少し昔。

読み書きができると、できないとでは、
生活にものすごく差がつくようになりました。

特に、明治維新後の日本では、
西洋の科学技術がどんどん入ってきて、
仕事の機械化が進んでいきます。
説明書を読んだり、説明書を作ったり、という能力は、
どんどん必要とされました。

だから、多くの人が、お金を投じて、読み書きの力を
得ようと努力します。

読み書きのすごいところは、
その能力さえあれば、教えてもらわなくとも、
いくらでも自分で学ぶことができるからです。
これは、強力な自己独立性と自己発展性になります。
依存しなくても、してもらわなくても、
生き延びられるし、成長できる能力です。

しかし、それから時代がどんどんすぎて、
気がついたら、
「与えられたテスト問題の読み書きはできるけど、
自分の意志では、何を読めばいいのかわからない。
自分の気持ちや考えを、書き記すこともできない。」
という人が大量に作られてしまった気がします。
これでは、「教えてもらわなくても自分で学べる」能力になりません。
これでは、「読み書きできない」のと同じではないでしょうか。

いやいや、今の子達は、プレゼンがすごいよ。
という声もありますが、
事前に周到に準備して暗記して、身振りや手振りや表情まで、振り付け師に付けてもらったようなプレゼンには、
臨機応変性はないです。重要なのは、自分の思考と、自分の意志です。

見学に来てくれた学校から、お礼の手紙が届くことがあります。
時々、200人分全部が、「拝啓、新緑の候、皆様お元気にお過ごしでしょうか。先日は私たちの為に、貴重な時間を・・・・・
私たちは、この経験を、今後の学校生活に活かしていきたいと思います・・・・」
という、まったく一太郎や花子の定型文かよ!な、一字一句、ほぼ変わらない、というのがあります。
正直に言うと、恐怖を感じます。
むしろ、めちゃめちゃな乱筆乱文でも、心が伝わる自分の言葉の方が、よっぽどうれしいし、勉強になります。

昔は、単純作業が多かったから、画一的な人間が必要とされました。
そして今も、一部の非正規雇用では、画一的な安定した性能の人間が必要とされます。
でも、その労働条件はかなり厳しいです。同じだと、比べられ、安い方に負けます。

学校は、「知識を押し込む場所」ではなく、
「学び方を教える場所」だと思います。
学校を卒業してから光り輝くようにです。
テストの点数がいいだけの人は、テストの点数という価値観が通用しない世界では、輝きを失います。

僕らは、自ら光を放つために、本当の読み書きを身につけた方がいいと思います。
そのためには、「なぜ?」を「調べる」練習をすべきです。
疑問を持ち、その疑問を調べるのです。ただそれだけです。
「うのみ」「丸暗記」ではなく「なぜ?」です。

そういう教育が、行われるようになりつつある現在。
「うのみ」「丸暗記」教育をがっちり受けてしまった人達は、
数年後に職場にやってくる「なぜ?」のニュータイプ人間に、
おもいっきり追い上げられることを覚悟すべきです。

そして、覚悟とは、あきらめる、ではないです。
来たるべき未来にそなえて、準備することです。

さあ。「なんかへんだな?」「そういうもんかな?」と思ったことを、調べましょう。
それが、ニュータイプの覚醒につながるはずです。

「うのみ」「丸暗記」「偏差値」「学歴」に魂を縛られたままにしないで。

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参照記事終了

 

 

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