自分で考えるという事

フェイスブックを見ていて、考えさせられた記事を拝見しましたのでシェアさせていただきました。

《自分で考える》

当たり前のように思っていた事ですが、訓練が必要だと改めて感じました。

《自分で考える》事のさらに先にはもっと大切な事象があるように思います。

 

以下、植松努様のFB投稿記事をシェアさせていただきました。

以前、植松電機に入社した人に、
「これについて、自分で考えてやっていいからね」と言ったら、
「自分で考えるのは嫌です。指示してください。」
と言われました。
「なんで?」と尋ねたら
「自分で考えたら、責任を負うじゃないですか。」と言います。
「どんな責任?」って尋ねたら、
「わかりません」と言われました。

結局、この人は、
「こんな会社だと思わなかった。自分は命令されたことを命令どおりにやりたかった。」とおっしゃって去っていきました。

会社を経営してから、毎年、「びっくり記録」は更新されていきますが、これも、本当に心に残る「びっくり記録」です。

余談ではありますが、
「命令されたことを、命令どおりにやる」という仕事は、
これからは、どんどん自動化されていきます。

今日は、東北の震災の日です。
大樹町で、ロケット打上場所から退避して、
呆然とニュースを見ていたことを思い出します。

先日の新聞に、大川小学校の記事がありました。
震災の時に、大勢の小学生が命を落とした学校です。
その記事の中に、
「山に逃げよう」と言った先生に対して、
「そんなことして、何かあったら、責任とれるのか!」と
恫喝した先輩教師がいたそうです。
提案した先生は、言葉を引っ込めてしまったそうです。
もちろん、この現場で生き残った方がとても少ないので、
もしかしたら、この話しには、真実とは違う点もあるかもしれませんが、それでも、これは、大事なことを伝えているように思います。

「責任」という言葉に対して、
僕たちは、「重たい」イメージを持っているような気がします。
そして、「できれば避けたい」というイメージもあるかも。
でも、そういうイメージは、いつ、なぜ、身に付くのかな。

僕自身、過去に何度も、
「そんなことして、何かあったら、責任とれるのか!」は、
何度も言われています。
一番最初に言われた記憶は、なんとなく中学校かな。
学校祭の準備の会議の時に、先生に言われたと思います。
僕は、そのとき、いろいろと答えたのですが、
論破できず、というか、そもそも議論にならず、
最終的に僕は、この言葉は「やめろ」という意味なのだな、と理解したような記憶があります。

例えば、誰かが、「無免許で自動車を運転したい」といったとします。
その時に、「そんなことして、何かあったら、責任とれるのか!」と言うこともできます。
でも、僕ならば、無免許運転は違法であることや、自動車の危険性や、事故のおそろしさや、保険という仕組みなどについて話すと思います。

人の思考や行動を否定し、やめさせる時に、
「やめなさい」よりも「責任とれるのか」のほうが、
なんとなく、もっともらしく聞こえるような気がします。
でも、その言葉には、根拠が乏しいように思います。

僕は、自分が判断する時は、最悪事態を想定します。
例えば、仕事であれば、最悪は、相手にお金払ってもらえない、ということも考えます。
その上で、それでもなお、プラスがあると判断したらやります。

自分が考えたことが、全部裏目に出る場合も考えます。
それでもなお、プラスになるように備えます。
プラスが思いつかなければ、その方法をやめればいいだけです。

どんな判断も、最悪の時の逃げ道や、落としどころさえつくっておけば、たいていは大丈夫です。

ところが、
「そんなことして、何かあったら、責任とれるのか!」
には、そういう思考が足りない気がします。

もしも、誰かの行動や思考を否定するために、相手の思慮が足りないよということの指摘や、アドバイスとしてこの言葉を使うとしたら、
「何かあったら」ではなく、もう少し具体的に提案したほうがいいと思います。
「責任とれるのか?」についても、その人に責任の内容を考えさせたり、責任の取り方を考えさせるのではなく、
自分だったら、こういうことに対しては、このように対処する、と示してあげた方が、アドバイスになると思います。
それができないのだとしたら、自分も思慮が足りないです。

子どもが何かを欲しがった時に、
「がまんしなさい!」と言い切ってしまうと、
子どもは、「がまん」=「あきらめる」だと学習します。
そういう子は、がまんすべき時に、あきらめたり、やめたりして、状態を改善しようとしますが。
あきらめたり、やめたりして、良くなる未来はありません。
最後には、この世に、自分のいる場所さえも失います。

同様に、誰かが何かを考えた時に、
「そんなことして、何かあったら、責任とれるのか!」と言ってしまったら、
その人は、思考することをやめてしまうでしょう。そして、「責任」を根拠も無く避ける人になるでしょう。

子どもが何かを欲しがった時には、
「あ、これなら、家にある材料でつくれるかもしれないから、家に帰って、一緒につくってみようか。」とか
「これは、あなたには未だ難しいから、こっちの簡単なやつからやってみようか。」とか
「これなら、中古屋さんにあるかもしれないから、あとで一緒に探してみようか。」とか、
とにかく、「だったらこうしてみたら」という対案が必要です。
そうすれば子どもは「がまん」=「違う方法を考える」だと理解するかもしれません。

僕は、
「そんなことして、何かあったら、責任とれるのか!」は、
無思考で無責任な言葉だと思っています。
こういう言葉を、上位の人がつかって、他人の思考や行動を根拠無くやめさせていくと、そこには、無思考で無責任な人間が量産されてしまいます。
これは、人を指導する立場にある人は、つかってはならない言葉かもしれません。
こういう言葉を使う人は、教育や人材育成や、指導には適していないと思います。

無思考で無責任な人達が、大川小学校の悲劇を招いた可能性があるとしたら、
「そんなことして、何かあったら、責任とれるのか!」という言葉について、僕らは、より深く、真剣に考える必要があるのだと思います。
再発を防ぐために。

 

 

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